口より先に飛んでくるゲンコツ

日本を代表するカーメーカー、本田技研工業の創業者である故本田宗一郎氏は短気で口より手の方が早かったことで有名だ。何か言い訳をすれば、その人間はすぐに叱声を浴びるか、ゲンコツが飛んできたといった類の話がさまざまに言い伝えられている。本田宗一郎氏が無理を通せたのはその一途な性格と、叱り方が幸いしたのかもしれない。といって、他の人がなかなかそれを真似たところでうまく行くはずもないだろうが、それでも何かの参考にはなるかもしれないと思ったので、少し振り返ってみることにする。

本田宗一郎氏には下手な言い訳や、「できない」という言葉が禁句であったことも伝えられている通りだ。だから会社の従業員も、宗一郎氏から難題を出された折にはそれをどう解決するのかを必死で考えたという。それも時間にゆとりがあるわけではない。悠長に構えていてはまたいつ叱声が飛んでくるか分からない。それを象徴する宗一郎氏の口癖が。「すぐやんなさい」だったと言われている。

全力で答えを絞り出す

岩倉信弥・元常務が車の部品を作っていた時、いろいろ考えた末に一つのアイデアを捻りだし、宗一郎氏に長々と説明をし出したことがあったそうだ。ところが宗一郎氏は長い説明が大嫌いだ。それよりも早く結果を見たがる。そして「すぐやんなさい」が飛んできたのだという。しかし、それはその場でできることでもない。どうしたものかとモゾモゾしていると。今度は「とべっ!」と大きな声が飛んできたそうだ。

岩倉氏はますますわからなくなってキョトンとしていると、「『とべっ』と言ってるんだ」とさらに怒鳴られた。岩倉氏はもう訳も分からず、ママよとその場で跳びあがったのだという。すると宗一郎氏は、「バカっ!」と言って大笑いし、そのまま出て行ってしまったのだそうだ。あとで分かったそうなのだが、「とべ」というのは浜松の方言で、「走っていけ」という意味なのだという。岩倉氏はすぐにモデルの石こうと図面を作り、新幹線に飛び乗って依頼するメーカーにむかったのだそうだ。
宗一郎氏とのやり取りは、実際に跳んだのはともかく、いつもこのような感じだったようだ。とにかく宗一郎氏がすぐに怒り出すので、難題を出されるといつも全力で答えを絞り出さねばならなかったようだ。そうして生まれたてのまだ温かいアイデアが、すぐに形にされたのだった。

褒めるのも名人並

こうしたことから分かるのは、宗一郎氏は「怒る名人」だったことだ。怒ることで必ず結果を出した。当時はそうして叱りながら人を育てていったのだろう。もちろん、叱られて消えていった人もいたのに違いないが、「宗一郎氏が叱った時、それに正面から向かい合って結果を出さなかった人はいない」と岩倉氏は自身の著書の中で振り返る。叱り方がうまかったとか、下手だったとかいう話でもない。叱られて辞めていった人もいるのだから、単に上手いともいえないだろう。ただ、「叱って人を育て、結果を残したことは間違いない」と岩倉氏。

宗一郎氏のそんな一面だけを捉えて、「ほらやっぱり、従業員教育は厳しくやらなきゃいけないんだ」と思うのは早計かもしれない。岩倉氏は、同じ著書の中で、宗一郎氏について「ほめる名人」でもあったと話している。とはいっても、宗一郎氏は人をほめることは滅多になかったそうだが、ほめる時は本当に嬉しそうな顔をしたそうだ。ある時は、「おっ、できたか。こりゃ、ベンツよりいいのができたなぁ」と顔をくしゃくしゃにして喜んでいたという。「それまで何度も叱られ、殺してやりたいとまで思ったたことがいっぺんに吹き飛んでしまった」そうだ。

繊細な心があってこそ

宗一郎氏はうまい言葉を使ったり、長々とほめたりするわけではないそうだ。ただ、心から喜んでいることが分かる顔と言葉、動作。それでそれまでの苦労も雲散霧消してしまうそうだ。一方、「宗一郎氏に叱られるのは本当に怖かった」とも。しかし、叱る気持ちもよく分かったという。「お前に任せているのだから叱るのだ」という気持ちが伝わってくるのだという。だから叱られてモチベーションが高まった。「自分がやらなくて誰がやる」「会社を背負って立っている」という気持ちを持たせる名人だったということだろう。

上司が部下に接する時、最も難しいのが叱り方だとされる。「感情をむき出しにしてはいけない」などとも言われるが、そうだったら、宗一郎氏は真っ先に失格になるだろう。計算やテクニックでは部下の心を本当に掴むことはできない。大切なのは「本気さ」であり、素直な感情の表現なのではないか。宗一郎氏がそこまで考えていたのかどうかは分からないが、宗一郎氏の元で働いていた従業員たちは、「仕事」という場を借りて宗一郎氏から貴重な「人間修行」を受けていたように思うと岩倉氏は振り返る。そんな宗一郎氏について、岩倉氏は「叱る時は本気で叱るから口より先に手が出ることもあったが、繊細な心の持ち主であったように思う」としている。

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