【目次】
捨てられる事業計画書
今や起業を目指す人にとって、いろいろなところで「創業塾」なるものがあるので、実際の起業に際して必要なこと、心構えなど、一通りのことは知っておられる方も多いだろう。そして、その中の一つに事業計画書がある。事業計画書は一言で言うと、創業者の夢を実現するための具体的な行動を示すものだ。企業の存在意義を明確にするだけでなく、銀行や投資家から融資を受ける際には、この事業計画書がとても大切になってくる。銀行や投資家は成長が見込めない企業や事業に出資(投資)したいとも思わない。だから事業計画書で事業の継続的な収益性を示し、信頼を得て、融資や出資(投資)を得るのだ。
これほど大切な事業計画書だが、それを苦労して作成した後、次第にないがしろにしている例が多いのに驚かされる。苦労して作り上げたものを大切に思う気持ちはあって当然だと思うのだが、ある起業家から聞いた話では、いざ実際に起業してみると現実が理想通りに行かないことに嫌気がさし、次第に当初作成した事業計画書からも遠ざかってしまうのだという。なるほど、私も起業家の端くれとしてその気持ちも分からないではない。しかし、当初想定していたことと現実が異なることは、何も起業に限った話ではなく、当たり前の話だ。加えて、事業計画書をはじめとする各種計画書なるものは、そもそもそれを作り続けることに意味があるものだと思っている。
事業計画書は作り続けるもの
今の時代、有名な大学に入ったからといって、将来が保証されたと思うような人がどこにいるだろうか。ましてその大学が東大であってもだ。大切なことはそこで何を学んで、将来の仕事に生かすかだろう。事業計画書も同じだ。大切なのは、それを作って自ら事業の将来性を確信し、具体的なステップを考えるのだが、いざ現実に即してどこが想定と異なっていたのか、それに対してどういう行動をとるのが良いのかを考える指針にしなければ、どんなに優れた事業計画であっても意味がない。そのために、一定の期間ごとに事業計画書の修正を繰り返していくのだ。
だからもちろん、起業してしばらく経つと、当初の事業計画書とはまったく違うものになっていたりするが、それはそれでいいのだ。それを始めの見込みとは違っていたからといって、事業計画書を途中で放棄する方が多いのが問題なのだ。そこまで行く頃には創業期を脱していると見なされるためか、「創業塾」ではもちろん、そこのところを誰もフォローをしたりしない。あるのはただ放置されてしまった事業計画書があるだけだ。その結果、起業に失敗したとなるのだろうか。それではあまりにもったいない。今、順調に事業を立ち上げている人だって、まったく計画に修正を加えなかった人などいないはずだ。
修正の大切さ
ちょっと想像してもらいたいのだが、仮に成田からサンフランシスコに向けて飛行する際、機体が当初予定されたルートの上を飛んでいるのは飛行時間のどのくらいの割合だと思うだろうか。飛行時間の90%だろうか、それとも80%?はたまた70%?正解は何と0%だという。飛行機には補助翼がついていて、飛行中それが常に動いているのは小さな窓から見ていても分かってはいた。しかし、飛行機に備わっている自動操縦装置は毎秒何回も予定位置と現在位置のズレを感知し、修正指示を出しているそうだ。飛行機の補助翼の役割こそがその飛行ルートを絶えず修正することにあるらしい。
このように大切なのはそのスタートではなく、離陸直後からの修正技術にあるということだ。新型コロナウイルスでも話題の私たちの体の中に働いている免疫システムにおいても同じことが起こっている。免疫システムにマスタープランはない。排除すべき外敵を前もって予測することはできないからだ。ウイルスでもバクテリアでも何度も変異を繰り返すため、そこでは常に排除方法を修正していかなければ体を防御できない仕組みになっている。人生においても一定の決められた状態に乗ることが幸せな良い人生を送ることなのではなく、修正を繰り返すことによって良い人生を作っていくものであることを私たちは体験として知っているはずだ。
準備に完璧さを求めるな
それなのに、事業計画書となるとそれを例外と思う人がいるというのはどういうわけだろう。世界が複雑になり、科学技術の発達も日進月歩の今日だから、なおさらはじめの一歩の重要性は低くなる。繰り返しになって恐縮だが、完全な事業計画書なんて初めから存在しない。それは修正を繰り返して、作っていくものなのだ。もう少しいうと、事業の目的もひとつだけとは限らない。完璧な企業戦略も、最適な株式のポートフォリオなどといったものもあり得ない。すべて空想の産物でしかない。
それなのに、長い時間をかけて私たちは「完璧な」事業準備を作り上げようとする。余程修正することに対するアレルギーが強いのかもしれない。小さなころから、一度掲げた目標を大切に守って、それに向けて努力をし続けることが美徳であって、それからはずれるのは失敗だと教えられ過ぎたせいだろうか。今それぞれの人間を作っているのは決して生まれの良さや模範的な家庭や一流の教育といった条件がそろっていたためではないはすだ。自分の欠点や足りないところを補うという修正の努力の結果なのではないか。事業も同じことだろう。