【目次】
道のりが遠く感じられる時
新型コロナウイルスの感染拡大はこの原稿を書いている時点において、ようやく収束に向けて一区切りがつこうとしている。しかし、まだまだ第2波、第3波があるものと考えると、本当の収束に至るまでの道のりはまだまだ遠いということもできる。これまでの行政の対応、伝えられるところの人々の反応を見ていると、やはりゴールの道のりが想像がつかないほど遠く感じられることに対して、人は途方に暮れるのだと考えられる。想像がつかない遠さは、そこにたどり着くまでにかかる時間を読めなくする。たどり着くまでの時間が読めないから、それを耐えられないと感じる。
人はつらい境遇に直面している時でも、その期間にいつ終わりが来るのか明確に分かっていれば耐え抜くことができる。しかし、その間の時間が全く読めなくなると、多くの人が耐えられなくなってしまう。ゴールの決められているマラソンでさえ、走る距離は決まっていても、身体のコンディションがいつまでそれを耐えられるのか分からない特に初心者には、途方に暮れる要因が潜んでいる。初心者だけでなく、熟練のランナーでも終わりが見えない忍耐をしているように感じることはあるのだという。こんな時、ランナーは何を考えて走るのだろうということが、私の長年の疑問だった。
歩けば見える景色も変わる
私はコロナウイルスが問題になる以前、スポーツジムで週に1,2回、ほんの少し汗をかく程度にランニングをしていた。この程度であってももちろん忍耐は必要だ。それなのにマラソンでの忍耐となると、その経験がない私にはやはり忍耐に終わりが見えないように感じるのではないかと思っていた。しかし、以前にテレビの番組に出るほどの有名なランナーでさえ(不覚にもお名前を忘れてしまった)、体調がすぐれない時はゴールが身体の限界より遠く感じられて、どうしても気持ちが落ち込んでくると聞いたことがある。そんな時は自分でゴールを細かく設定し直して、足を前に踏み出すことだけを考えたという。
言ってみれば、今のつらい状況についての見方を変えるということなのだろうか。沿道に立っている「ゴールまであと〇〇㎞」という看板はいったん見なかったことにして、とりあえずはあと1㎞先まで、あるいは余程しんどい時にはあの先の電柱までと狙いを定めるのだと言っていた。そうするうちに途中で水分補給所などが見えてきて、そこまで行けば喉を潤すことができる、「よし頑張ってみよう」となるのだという。こうしているうちに、体調も回復して再び元気に走れるようになることもあるのだそうだ。要は「あと一歩」の積み重ねの大切さだ。
行動計画の細分化
普段でも細分化された行動計画を練ることは大切なのだと感じさせられる。それは事業においても同じことだろう。これから数か月、数年でやることすべてのゴールだけを眺めていると気が遠くなってしまう。特に今回のようなコロナ禍の下では、そのゴールはいつもの数倍、数十倍にも長く感じるものだ。そんな時はそのゴールにたどり着くまでにやるべきことを可能な限り細分化することで、達成感を感じながら前に進むことができるようになる。ただ、時にはゴールを細かく設定できない場合もあるかもしれない。コロナ禍の収束そのものをゴールに設定したような場合だ。
これはそもそもゴールがどこにあるのか分からない時だ。そんな場合であっても、決して立ち止まらず、仮のゴールを決めて愚直に足を前に進めることが大切なのだと、先のランナーは教えてくれる。足を前に進めている限り、どんなに遠くてもゴールは近づいてくる。万一、今進んでいる道が間違っているかもしれない場合でも、とりあえず進むことによって進んでいる方向が間違いであったことに気づくこともできるし、それはそれで一つの価値ある前進になる。とにかく、足を前に踏み出すことを続けることで、自分は前に進んでいるという揺るぎない確信を得ることができる。
助けも積極的に借りる
コロナ禍の経済活動における影響は、むしろこれからが本番を迎えるともいわれる。これまですでに観光客の減少や消費の減退などで直接的な影響を被っているところは言うに及ばず、今までの受注残を抱えてそれを消費することでやってこれたところも、今後はその受注残がほとんど尽きようとしているからだ。営業の再開にこぎつけたところはまずはやれやれといったところかもしれないが、いったん失った消費の流れを取り返すには、それはそれでまた考え及ばない苦労があるかもしれない。今は先の心配をするより、足下をしっかり固めながら一歩一歩走り出すのが良いのかもしれない。
それでも足が前に出ない時は、何かの力を借りるとよいかもしれない。マラソンなら自分の好きな曲を耳元で聴きながら足を前に出す。今回の状況下で事業を進めるためには、行政が用意した助成金などを活用するという手もある。あるいは、周囲で頑張っている企業に協力して、何か協力できることを探すということも可能かもしれない。かつて、あの文豪のゲーテは「ただ溌剌とした活動によってのみ、不愉快なことは克服される」と表現した。苦しくても、先が見えなくても、とにかく一歩一歩前に進むことの大切が今こそ問われているのだと思う。