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結果と成果はまったく別者
「結果」と「成果」を混同しているケースが多い。例えば会社の給与体系を語る時、「うちは成果主義を導入していて、目標に対して売上が上がればその分を還元するし、上がらなければ基本給のままです」としか説明のないのは、それが単なる結果主義に過ぎず成果主義とは程遠いものだと思われても仕方ない。成果主義を標榜するのであれば、単に売上が上がった、下がった、商談が成立した、しなかった、目標を達成した、しなかったというように、結果の良し悪しだけを判断材料にするのでなく、たとえ結果が悪くても、そこからどんな反省点があり、それを次の商談にどのように生かしたかという検証過程が必要になってくる。
給料について言えば、大事なプレゼンで大失敗をしたが、そこから反省して以降のプレゼンでは準備万端整えて臨み、それに加えてA案だけでなく、B案、C案まで揃えて、リーダー的な存在としてグループのメンバーを引っ張っているということがあった場合、最初のプレゼンでの失敗を数字上ではまだカバーできていなくても、事業に立派に貢献していると言えなくもない。結果主義なら、失敗したプレゼンの落ち込みをまだカバーできていないので、給料はダウンするところだが、そこまで検討した上で、「じゃ、給料は前期より〇%アップしよう」とするのが本当の成果主義だろう。
失敗=成果ゼロではない
人生と同じで、会社でも一つひとつの経験に意味のないものはない。たとえそれが失敗に終わっても、そこから何がしかを学ぶことで成功に近づくことができる。科学の実験でもそうだろう。失敗がなければ成功はない。心が折れるような出来事があった場合に、それを「忘れたい」と思うのは仕方のないことだし、嫌なことがあったことをいつまでも覚えていて、それがことあるごとに蘇ってくるようでは、精神上もよろしくないだろう。しかし、だからといって、失敗を放置したり、そのままに忘れてしまったりしていては、大切な何かを得る機会まで失っていることなる。
忘れたい出来事であっても、その出来事が起こった意味をしっかり振り返ることを怠ってはいけない。成果主義というのは、起こってしまったことを結果として捉えるのではなく、成果として捉えることを指す。それは成功した時でも同じだ。なぜ成功できたのか、失敗したなら、なぜ失敗してしまったのかを考え、そこから何を得ることができるのかを突き詰めることだ。その基本をせずに、「成果主義は導入したがダメだった」と判断するのは間違っている。それはただ単に結果主義を試したに過ぎなかったのだ。思い当たる節がある際は、再度挑戦してみてはいかがだろうか。
能力主義の失敗の過ちを再び成果主義で繰り返していないか
成果主義はもともと欧米の賃金制度で、日本ではバブル崩壊後の1990年代から注目されるようになった。年齢や学歴、勤続年数などに左右されず、仕事の成果が昇進や昇給につながるシステムは、特に若者の間で仕事に対するモチベーションを高めるのに向いていると、もてはやされた。しかし一方で、結果を出せない場合には残業が多くなってしまったり、頑張っても評価が上がらないとの声も出てきて、導入したものの取りやめた企業も多いというのが現状だ。私は、この時の「頑張っても評価が上がらない」という不満の声を聞いた時に、成果というものの捉え方がおかしいのではないかと感じた。
この成果主義がうまくいかないとの声を聞いて、「そら見たことか」とうそぶいていたのが、それまで能力主義の下で順調にキャリアを積み重ねてきていた中高年だった。能力主義では個人の能力が評価される仕組みなのだが、これも何を「能力」としてきたのかが問題だった。具体的には、何ができるのかというスキルや仕事をやりぬく力、仕事への姿勢を含めた職務遂行能力を指すようだが、実際には年功による評価、つまり年齢以外ほとんど具体的には何も判断しないことが幅を利かせていた。それがバブル崩壊に翻弄されたのは、「能力」という言葉に踊らされた必然的な末路だったような気がする。
経験したことを次に生かす時
今更ながらのことで恐縮だが、言葉の一つひとつの意味を考え、大切に使うことは私たちが思っている以上に大きな影響を及ぼす。普段私たちが何気なく見過ごしている中に、ものごとの本質が隠れていることもある。だから特に企業や社会のリーダーには、言葉を大切にしてもらいたいと思う。ずるい人は、さりげない言葉遣いの中に自分の責任を回避できる部分を作っているかもしれない。たとえで使って悪いが、契約書や役所言葉というものも、その類だろう。それはさておき、とにかく少なくとも自分たち自身が使う言葉で、何より自分たち自身が自らぼやけさせてしまっているような問題は無くさなければならない。
そして今、結果と成果を混同したままでいては、この新型コロナウイルスによる未曾有といっていい経済危機にも対応することはできないし、未来を拓くことはできない。成果主義はもう時代遅れとばかり、スケープゴートとして祭り上げて済ましていても何も始まらない。一つひとつの起きた事象の意味づけを考えることは、次のステップに踏み出す際に必ず拠り所となるはずだ。特に前例のないことへの対応、他にお手本のようなもののない時代を生きるためには、経験から何を学んだのか、そこで気付いたことは何なのか、次に生かせることは何なのかといった基本的な姿勢こそが求められるのではないだろうか。